フランシス・ベーコン展 、その舞台性。 (ベーコン展・その1)

感じるものが大きいとアウトプットが難しくなる。



先週から東京国立近代美術館で始まった「フランシス・ベーコン展」を観にいった。

見に行って何日か経つが、そのとき受けたものは私の中でまとまらず 一日一日とまだ拡がっている最中で、

しかし自分の中の覚書としても書きたい欲求があるので、今の段階でとりとめないかも知れないが綴ってみる。





フランシス・ベーコン(FRANCIS BACON)。


私は今回の展覧会に行くまでほとんどこの芸術家に対する知識は無かった。

名を聞けば、 そういう名前の現代芸術家がいるなぁ、という程度。


フライヤーの文章を引用すると-
フランシス・ベーコン(1909-1992)はアイルランドのダブリンに生まれ、英国のロンドンを拠点に活躍した世界的な画家です。同姓同名の哲学者の、傍系の子孫とも言われています。




先入観も知識もなく展覧会に入り、彼の作品と対峙する。




その作品群を見ていく内に、その絵は非常に ”舞台的” であると感じる。

舞台の上の肉体、見せるもの、見られるものとしての肉体。



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(見せる、見られると書いたが、それは他という、観客という視線が存在しているのか
ベーコン自身からの視線に対してのイメージなのかはわからないが。)



そしてあらためてその日のフランシス・ベーコンを自分で解かったのは、
ベーコン展の部屋を出てから、近代美術館内の他の会場で催されている別の企画展の展覧会にも寄ってみた時である。

そこに入った時、何か寛いでいる、ほっとして気が緩んで日常の自分になっている自分に気づいた。


そこで初めて、
先程までのベーコン展の空間に居る事がいかに自分を緊張させ、その非日常性が自分に圧をかけていたか気づいた。

ベーコン展に生身のフランシス・ベーコンは居ないが、
彼の作品はその2次元の作品だけで、その前に立つ人間にひどく緊張を強いるほどの緊迫感をもたらす。




・・・昔々、何かのTVだかで聞いた話で、すっかりうろ覚えなのだが、
水に音楽を聴かせると(?)、音は波動なので水の成分(組織)に影響をあたえる・・・とか? 

そんな番組を見たことがある。 その様な事が本当かどうかはそちら方面の科学的知識のない私に真偽のほどはさっぱりなのだが、

今回、目の前に立ったベーコンの作品はそんな話を思い出させるような

人を緊迫させる作品は、目の前に立ち、その作品を見る者の身体の組織を、
たとえばごく小さな細胞内の何かを、微細に組み変える様な力を有するように感じる。




そして、この展覧会では、
ベーコンの作品と並んで、ベーコンがその身体性で影響を及ぼした人物たちの作品
ひとりは土方巽、そしてもう一人はウィリアム・フォーサイスという舞踏家たち― 
も並列されていて、私は個人的にそちらにもより大きい驚きを受けたのだが、それはまた次回に書きたい。


本当に受けるものが大きいと、自分のなかでもそれは日々増殖し続け、書くことなどなかなかできないものだ。
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by voicivoila | 2013-03-15 23:28 | カラダ・ブタイ・デザインログ | Comments(0)
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