遠い場所の知らない誰かに伝わり、継承されてゆくこと。

昨日、社内である人に声ををかけられた。

それはただの通りすがりの一言だったが、

(たまたま社内のとある共同スペースの、あまり人通りがない通路でもあるため
節電で照明を少なくしている少し灯りを落とした場所でちょっとした作業をしている時だった)


後ろから「ここ薄暗いわね」とふいに声がし、

へっ? と思って振り返り、反射的に「あっ、そうですょね」と軽く笑って返したのが、
社内で初めて間近で見るある女性だった。


―その女性は、
私が10代、20代の頃その誌面に惹きつけられて読み、毎号の1ページ、1ページに込められている美しい独特の世界観からどれだけの影響を受けたであろう、と思うある雑誌作りに携わっていた人だった。


今の職場に入社したばかりの頃、社内のある部署がその女性と関わる仕事をしていて、時々この会社にも会議などでいらっしゃる、と言うことを思いがけず知り
「あの雑誌を作っていたあの人が?」と驚き、
ひとつの雑誌とともに、ひとつの文化を世に伝えた人、いつか社内でお姿だけでも拝見する機会があれば…、と思った。


しかしそれから日々は過ぎ、時間に追われる毎日の慌ただしさにその事はすっかり忘れていた時分の、
昨日の廊下でのふいな出来事だった。


「はっ、あの方だ」と思ってお見かけした横顔は一瞬。
あとはフフッと笑いながらゆっくり歩かれる後ろ姿を何秒か見送った。


瞬間の事であるが驚きとともに深く心に入った。

その彼女の、表情の端にユーモアを携えた横顔から
ほんの一瞬だが、いろいろな事を受け入れ多くの事を判断したくさんの事をやり遂げて来た女性の、今の落ち着きと受容の深さを見た気がした。



その後、自分の席に戻って仕事を始めてからもその出来事が残り、
彼女がある時代に作って来た雑誌、それを読み、影響を受けて来た自分が思い返された。



人が人に影響を与える。

例えば母親は娘に、その子を育て供に生きる時間の中で、自然と彼女(母親)の美意識も伝えているだろう。無意識にも娘はそれを引き継ぐだろう。

でも昨日一瞬出会ったその歳上の女性は、
実際に会う事もない遠い場所から、
ひとつの雑誌という場を通して多くのその当時の女の子たちに、ある美しさと世界とスピリッツを送り続けた。

その世界観はひとつひとつのページから若い私の眼を通して私の中に入り込み、
その後何十年か経った今の自分までに至り、人生の中の何かの根幹をつくる一部となっている。


―かつてその本を読んでいたことはすでに昔の事で、今の毎日の中で思い出すことはあまりない。

しかし彼女と思いがけず接近した昨日、
あ、私はこの初めて会う女性がかつて作って来た世界の遺伝子を、私を形成する精神のある一部分として(もうすでに無意識下になってはいるが)継ぎ続けているんだ、と改めて感じた。

それはちょっと不思議な感覚だった。



親からとはまた違う、知らない誰かが作るその人の美意識の作品を、雑誌と言うメディアを通して自分の血肉の一部になるほど影響を受ける。

それは雑誌に限らず、ひとつの映画、ひとつの舞台、、一冊の本、…その他いろんなメディアを通して今も日々誰かに起こっている。

誰かの熱心な仕事が、熱が、誰かに届く。
身近な人であれば感じやすい事が(例えば親から子、師匠から弟子、友だちから自分…)

それがメディアに乗った時、遠い場所の知らない誰かに届く。
作り手の熱が本物であり、質の高いものであれば遠い知らない誰かにもそれは確実に感じ取られ、生涯に渡って静かに深く浸透する何かに成りえる。

その伝播が「美しいこと」「精神の豊かさを教えられること」ならば、なんて素晴らしい事だろう、すばらしい仕事だろうと彼女との邂逅に教えられた。




その晩、家に戻り、古いスクラップブックを広げる。
何十年も前に、その雑誌から切り抜いていたスクラップ。

1ページ全体の空気感が好きでページごと切り抜いたもの、ひとつの女性のコーディネート、ひとつの小物を気に入り丁寧にそれを切り出しブラックバックにレイアウトして貼ったもの、
それらを昔の自分が丁寧に貼り付けたブックから、その時にそのページに、ひとつの写真に、雑誌全体から感じる空気感に、当時どれだけ憧れ、何回も何回も見ただろうかを想う。


何ページか古いスクラップをめくる中に、彼女と会ったその日、時間の無い朝に私がバタバタと選んで着た服のテイストと、どことなく似ているコーディネートの切り抜きもあった。


変わるものは変わる。
でも好きなもののベースは一生の中でも変わらないものだ。
そのベースの一部に、良いものを教えてくれ与えてくれた彼女の仕事を私は讃えたく、感謝したく思った。



もし次にどこかですれ違う事があったなら、
知的で可愛らしく、どこかいたずらっぽい印象もあるそのチャーミングな婦人に、私は何か感謝のヒトコトでも言えるだろうか?


おそらく緊張し「…お疲れさまです!」で精一杯だろう。。。
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# by voicivoila | 2013-10-19 19:01 | 日々のログ | Comments(0)

服は皮膚の延長線上だと、岸恵子さんのスーツ姿から教わる。

昔から、ダンサーさんが “衣装っぽくない” 格好で踊っている場面や姿に惹かれる事がある。


もちろんバレリーナの人がクラシックなコスチュームで踊るのも美しいのだが、
彼ら(バレエだけでなくいろんな種類のダンスの踊り手の方)の様に身体能力の高い人が
普段着というか、さらっとレッスン着とか、とろんとしたワンピースでスッと踊る・動く光景に
「おー・・・」と(理由はわからないけれど)非常に惹かれる。


日常的な服での舞いの方が、美しく鍛えられ、日常とは離れた身体表現が
より際立って自分に感じられるのだろうか?




*******************



何年か前、市川崑監督の『黒い十人の女』と言う映画のポスター写真で岸恵子さんのスーツ姿を見た時、

「スーツってこんな風に着るものなんだ、、
そして、服と言うのは皮膚の延長線上なんだ・・・」

と軽く衝撃を受けた。


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なぜ彼女がこういう着方ができるのか、なぜ彼女の姿に自分がこう感じるのか・・・?




まず自分の身体の輪郭に意識的である人、
自分の身体に(輪郭にまで)意識が満ちている人が
その上に纏う布(服)をも、自分のものとして取り込むこと(自分との自然な一体)ができるのだろうか?

そう考えると、最初に書いた「普通っぽい服で踊るダンサーさんの姿に惹かれる」感覚というのは、
日常の服を、その高い身体意識で(ふつうの我々が服を着たときにはできない)
自分の皮膚のように扱えている非日常さ・美しさに惹かれているという事でもあるのだろうか?


纏っているものを皮膚的な服(布)にしてしまう踊り手。



(布が体にのっている時のよそよそしさ。

あるいは

皮膚のようになじませてしまうこと。


ーその違いは着ている本人のからだに対する意識の違いなのか。)




******************



まだ頭のなかでぼんやり浮かんでる状態の事を書いてしまうと、


求心力と言うものが低かったり弱いと(求心力と言っても自分の中でも漠然としてるので、何を指しているのか説明できずにごめんなさい・・・)
どんどん自分の輪郭や肌は自分から離れていく気がする。自分の身体が遠い。

求心力が高い人は自分の輪郭も肌も統制し(?)、しっくり自分のものとして身体と自分自身を近く親密に持っているんじゃないか?・・・
と、そんな考えが浮かんだ。

多分私が惹かれる身体表現者の人は後者なのだろう。
そしてそういう人は、身にまとう衣装、布、服さえも自分の皮膚のような魅力にできるのだろう。



( 唐突に関係ない話かも知れないが、
高度な身体操者が服をも皮膚的に取り込んでしまうのではと思った時、昔に読んだ本で、

ーイチローは、
ピッチャーが球を放った瞬間から、ボールを自分の領域・自分の空間のものとして感じている(自分の側の世界(空間やタイミング)としてとらえ始めている)のではないかー


というような事が書かれた一説を思い出した。・・・関係なさすぎだろか。。。)



今日の考察はこのあたりで・・・・





voici
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# by voicivoila | 2013-05-31 20:57 | カラダ・ブタイ・デザインログ | Comments(0)

熊谷守一美術館。

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いちばん印象に残ったのは、この「日輪」という作品だった。

あの部屋で見たこのピンクと白を、写真で再現する事はもちろんできない。







熊谷守一美術館。
ずっと昔に一度訪れた事があるが、今回この美術館の28周年の特別展があると言う事でひさしぶりに足を運んだ。

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(美術館の壁面に刻まれた守一の蟻。)







省略された線の、これほど惹かれる魅力は何だろう。

ただ、省略された線が良いのではなく、どう省略しているのか、の、その人の筆の魅力なんだろう。

誰にも似ていないように感じる熊谷守一の線に顔を寄せて見入ってしまう。


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館内には守一の写真も何点か飾られている。

涼しい眼。
それを見ていたら、

むかし読んだ「気と呼吸法」(鎌田茂雄 帯津良一 著 / 春秋社) という本の中の、
病が重く、死の近い患者さんに激励は酷で、善意は悲しい。言葉も説法も要らないのだ。きれいな青空のような瞳をしたすきとおった風のような人がそばにいるだけでいい。
という様な言葉が浮かんだ。 

守一の風貌はそんな人を思い出させる。



また、彼の描く松林などの風景を見ていたら獅子文六の小説「悦っちゃん」に描写される海辺の風景を思い出した。
画から感じるのはウェットより乾いた印象。それが獅子文六のどこかドライでユーモアのある文章に似ている所があるのかもしれない。




ここ、豊島区の美術館は守一のかつて住んでいた家でもあり、今は守一の娘さんが作品とともに守っていらっしゃる閑静な場所。ここで静かに作品を見られる時間は贅沢だ。


また、97歳まで生きた守一の作品はこの館の他にも日本各地の個人や美術館で所蔵されているらしい。
館の女性がおっしゃるには、愛知県の美術館も熱心に守一の作品を集めているらしい。(あとは守一の故郷である岐阜の美術館も。)

ここで彼の筆に・線に・色に触れて
(ほんとうに線の描き方、その線の色、バックの色、対象物の色、その選び方は見入ってしまうのだ。)
まだまだ他の作品も見てみたくなった。



外国ではあまり知られてないのではという話であったが、これだけの作家がもったいない気もする。
しかし、守一ご本人が、有名になったり人に広まる事をそれほど望んではなかった様なので(人が多く訪れる様になるのを好まず、賞を辞退した事もあったらしい)、この館と、日本のいくつかの場所で静かに彼の作品と会えるのがよいのだろうか。


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熊谷守一美術館
28周年展
2013.5.24(金)ー 6.30(日)
開館時間/10:30〜17:30(金曜日は20:00まで)◆入館は閉館の30分前まで
休館日/月曜日(5/27、6/3、6/10、6/17、6/24)






・・・特にグラフィック・デザインに関わる方なら、より興味深く見られるのではと思う。



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voici
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# by voicivoila | 2013-05-27 20:25 | カラダ・ブタイ・デザインログ | Comments(0)

ものが在ること自体で放っているもの。力。

良くわからないタイトルでごめんなさい。

自分でも漠然と思考中のことについての個人的メモでもあるので、
いつにましてまとまっていない散漫な文章です。。。





先日、渋谷bunkamuraにアントニオ・ロペス展を観に行った際、展示のひとつにロペスが自分の孫をモデルにしたという彫像があった。
赤ちゃんの頭部を作ったものがいくつか並んでケースに入っていたのだが、その小さな作品の愛らしさ(造形・表情)に惹き込まれ覗き込んでいる時、作品の持っている何かに(うまく言えないが、作品が置いてある事でその空間に放たれている空気(?)に)かるく目眩がするような気がした。
で、「モノってそれだけですごい磁力があるんだなー」と思ったのだが、その時は見たものが人の“頭部”という、一般的に言っても人体のなかで割とインパクトの強い部位だったので、造られた作品でも特にそう感じたのかな?と考えた。


その後何日かして、上野の国立博物館で催されている「大神社展」というのを観に行くことになった。これはとくに強い興味があったのでないのだが(神社仏閣に詳しい訳でもないし)、聞けば結構(結構どころか大変)歴史的に貴重なものが展示されているとのことだったので軽い興味で出かけていった。




そこで、その大掛かりな展示の作品群を見て歩いていたら(展示前半部の半ばあたりだったか)、
部屋の薄暗い一角にひとつの神輿が置いてあった。


それは金色のさまざまな装飾をされ意匠も非常に凝った大きな神輿だったのだが、そこに在る、立派なさまに圧倒されてただ前に立ち、静かな展示室の一角で神輿の語る/放つ大きな気配、静かだが同時に迫ってくるようなものに呑まれた時、先日のロペス展での事を思い出し「あの時あの頭部の彫刻を前にした時の、ものがそこに在るだけで放つ力がここにもあるなら、彫刻から感じた周りの空気をも変える力はそれが頭部という造形だったからではなく、形の違いではない何かなんだ。」・・で、それは何なんだ?とまた疑問。


思ったのは、頭部の彫刻にも国宝の神輿にもモノの向こうに作り手の思いがある、と言うことだけれど・・・
赤ちゃんの頭部にはロペスが、神輿にはおそらく何人かの神輿作りの選りすぐりの職人が(あるいは一人の職人?)。 どちらも対象にその思いや意匠を深く込めているだろう。でも、それならばアントニオ・ロペス展であっても大神社展であってもほかにも作品・展示物は数々ある。どの物も作り手の思いが入らないものはない。
ではなんで特にまわりの空間を静かにさせてしまう、緊張させてしまう、人の口を噤ませてしまうほどの気配を持つものがあるんだろう?

あるものが放つ何かは、他のあるものは放たない。
ものの大きさとも質量とも関係ない。
(あ、都庁みたいな大きなビルはそれなりに大きさ・質量で人に圧(?)を与えるけれど。
でも建物も気配はそれぞれ。)

しかしそれは人でもそうで、だいたい(すごいザックリな言い方だけど)みんな同じような構成で体はできているけれど(骨格や筋肉や。)、ある人がそこに立った時(また歩いた時etc.)、放つものは個々によって違う。
モノと違うのはそこにその時の体調や考え/感覚のテンション等々も“放つもの”に含まれている事だろうか。。(いやそれ以前に人と物は根本的に違うが、それはあった上での話で。。)


(関係ないけど最近、人も構造物だな、ある意味建物と一緒で、言わば自分で移動できる建造物だなとも思います。 街をつくる景観のひとつでもあるし(自分の足で動く景観)。)


・・・と自分の疑問は今このあたりでとまっておりますが。

また日々の中で浮かぶことあれば、地味に考えていくのであります。



voici



参考

私がその前で深く黙ってしまった神輿(国立博物館「大神社展」より)
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国宝「沃懸地螺鈿金銅装神輿」平安時代・12世紀
和歌山・鞆淵八幡神社

(この写真は、大神社展の感想を書いていた人のブログをお見かけして
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=3203
そこから拝借しました。)








・・・またふと考えると、
すべてのものは(ひとであれものであれ)それぞれの気配を放っているだろうから
そこからあるものに自分が反応するというのはそれとの相性もあるのかな、と。


また書こう。。
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# by voicivoila | 2013-05-14 01:00 | カラダ・ブタイ・デザインログ | Comments(0)

高円寺大道芸まつり

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異形の人も、異形じゃない人も、お子ちゃんもじいちゃんもばあちゃんもオジサンねえさん、様々がワチャワチャしながら見てるのが大道芸のいいとこすかね。


大駱駝艦知ってる人も知らない人も(わたしも今年知ったばっか!)それぞれごちゃごちゃいろんなこころの温度で見てた“ゴールデンズ from 大駱駝艦”。




よかった!


本気の人たちは、かっこいい!


って思った。




いい街ですね高円寺。
ありがとうございました。


voici
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# by voicivoila | 2013-04-28 20:08 | カラダ・ブタイ・デザインログ | Comments(0)