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土方巽の身体。自意識からの解放。フランシス・ベーコン展(その2)

東京は今日が桜の満開だと言う。

日中の外出で近所の川沿いの桜並木を見てきたが、麗らかな陽気に見事な爛漫だった。


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日本人の心が浮き足立ってしまう日のひとつ。



* * * * * *


前回の記事に続き、続・フランシス・ベーコン展。


ベーコンの作品が静かに続く部屋をいつくか通って行く。

ベーコンの間、絵の前を暫く進み

ーと書いたが ”絵”という言葉には違和感がある。ベーコンの作品は二次元ではあるのだが
その大きさと描かれているものの力から、一枚一枚が生身の人間がそこで動いている、また佇んでいる舞台であり
劇であり、場であるように感じるー



いくつかの間を抜けてある部屋に入ると、奥のほうから静かな曲のようなものが聴こえて来る。

そこでもゆっくりと作品を見ながら進んで行くと
奥の一角の壁に白黒のうごめくものが映写されていた。

それが私が初めてみた 土方巽 だった。

このベーコン展において、フランシス・ベーコンから影響を受けた舞踏家のひとりとしてその映像が展示されていたのだ。

この人もまた、私には ーうっすら名前は聞いたことがあるー ぐらいの人であった。


(土方巽 Hijikata Tatsumi 1928/3/9 - 1986/1/21 
舞踏家、振付家。 暗黒舞踏という新しい舞踊形式を確立した人らしい。

* 暗黒舞踏 = 現代舞踏(≒コンテンポラリー・ダンス)、または前衛舞踏の様式で前衛芸術のひとつ )







そこに映されていたのは彼の舞台 ”疱瘡譚 Hosotan”からの白黒映像の一部である。

映像の前にはいくつかの小さなベンチ。
そこに腰掛ながら初めての土方巽を経験する。

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遠く、包まれる様な穏やかな音楽にのせて
眼に入るのは音楽と対極にある様な異形の人間の世界。






舞台上の彼を見て、まず思ったのは
「この人からは、なんでこんなに自意識が感じられないのか?」という事だった。

たまに舞台や映像で見かける現代舞踏、
そこからはその人の身体能力の高い・低いより先に、まず前面にその演者の自意識が感じられる事が多い。
それが大きいとなんと言うか見てる私が恥ずかしいと言うかそれが意識される事が壁となり、
彼(彼女)が本来表現したいであろうことにたどり着かない感が多々ある。

て言うか(私が遭遇する、少ない機会の現代舞踏ではそういう事が多いので)舞踏ってそういうものだと言う印象が勝っている程。

(例外では何ヶ月か前にDVDで見た見たピナ・バウシュ。彼女の身体、表現はあきらかに特出しているものだ。)


土方巽(またはピナ・バウシュの様な優れた表現者)からは、まずその表現が感じられるのだ。小さな自意識などから遠く離れて、
世界、彼らの表現したい世界がまずあり、見るものはそれに出会う。

身体能力とか技術とか、そのようなものよりまず先に表現が見るものの前に現れる。
身体をどう動かすかという技術は、そもそも表現のためのものだ。表現のための技術。

でも現実には表現より技術が勝っている人が多いのだろう。技術や「私がこうしたい」「こう動いている」という自意識。
それが勝っていると見るものはそこから先へは進めないのだ。



****************


そして次に土方から感じたのは、
この異形のかたちであるのにかかわらず(ありていに言えばその風貌からグロテスクだったりするのに)
映像から感じる清々としている静けさ。静謐。 

それは何故? という事。

それは音楽のせいかも知れない。

彼がこの異形のパフォーマンスに選んだのは "Bailero" Chant d'Auvergne『バイレロ』オーヴェルニュの歌 。

もともとフランスのオーヴェルニュ地方に昔からあった農民の民謡を、地元オーヴェルニュ出身の音楽家が管弦楽団とともに再編成したものらしい。


その農民の生活に根ざした優しい歌と旋律と、土方の異形が相俟って
不思議な安らぎ、母親から与えられるのような安らぎ、赤子が全存在を母の中に置いているような安らぎを覚える。


彼の纏う衣装、彼の風貌、それだけを見るとそれは観る者に精神の、情緒の不安定しか与えないようなものなのだが
見終わった後の不思議な安らぎ。
この曲を、この舞踏に選んだ土方巽はどのような表現をしたかったのかは分からないが、その意識は非常に惹かれる。

彼の衣装は誰が考えたのか。かれの髪は。

その身体と皮膚の感覚を知りたくなるパフォーマンスの高さ。





展覧会場には土方巽が書いた直筆の舞踏の譜面? 舞踏譜も展示されていた。

舞踏に譜面があったというのも初めて知るが
そこに書かれた文字、

「顔の部分と腰の部分に偏執的にザラっとこだわる」

「組まれた脚の気化、顔の気」

などを読むと、

彼の常人にあらぬ身体意感覚が伺えて非常に興味深い。


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そしてもう一人、ベーコンから影響を受けた舞踏家としてウィリアム・フォーサイスのインスタレーションが
展示最後の部屋に表されていた。
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コンテンポラリー・ダンスとして彼の名は見聞きしていたが
この映像も興味深かった。

映像と言うより、そのスクリーンと空間の構築。

今回の展覧会の企画者、キュレーターの方の意識が高いのだなと思うその展示。

それは言葉で言うよりぜひその場で体験してほしい。





この春、この展覧会から感じたものは
まだおさまらず。


まだ自分の中で書き足したい。
by voicivoila | 2013-03-22 20:28 | カラダ・ブタイ・デザインログ
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