ものが在ること自体で放っているもの。力。

良くわからないタイトルでごめんなさい。

自分でも漠然と思考中のことについての個人的メモでもあるので、
いつにましてまとまっていない散漫な文章です。。。





先日、渋谷bunkamuraにアントニオ・ロペス展を観に行った際、展示のひとつにロペスが自分の孫をモデルにしたという彫像があった。
赤ちゃんの頭部を作ったものがいくつか並んでケースに入っていたのだが、その小さな作品の愛らしさ(造形・表情)に惹き込まれ覗き込んでいる時、作品の持っている何かに(うまく言えないが、作品が置いてある事でその空間に放たれている空気(?)に)かるく目眩がするような気がした。
で、「モノってそれだけですごい磁力があるんだなー」と思ったのだが、その時は見たものが人の“頭部”という、一般的に言っても人体のなかで割とインパクトの強い部位だったので、造られた作品でも特にそう感じたのかな?と考えた。


その後何日かして、上野の国立博物館で催されている「大神社展」というのを観に行くことになった。これはとくに強い興味があったのでないのだが(神社仏閣に詳しい訳でもないし)、聞けば結構(結構どころか大変)歴史的に貴重なものが展示されているとのことだったので軽い興味で出かけていった。




そこで、その大掛かりな展示の作品群を見て歩いていたら(展示前半部の半ばあたりだったか)、
部屋の薄暗い一角にひとつの神輿が置いてあった。


それは金色のさまざまな装飾をされ意匠も非常に凝った大きな神輿だったのだが、そこに在る、立派なさまに圧倒されてただ前に立ち、静かな展示室の一角で神輿の語る/放つ大きな気配、静かだが同時に迫ってくるようなものに呑まれた時、先日のロペス展での事を思い出し「あの時あの頭部の彫刻を前にした時の、ものがそこに在るだけで放つ力がここにもあるなら、彫刻から感じた周りの空気をも変える力はそれが頭部という造形だったからではなく、形の違いではない何かなんだ。」・・で、それは何なんだ?とまた疑問。


思ったのは、頭部の彫刻にも国宝の神輿にもモノの向こうに作り手の思いがある、と言うことだけれど・・・
赤ちゃんの頭部にはロペスが、神輿にはおそらく何人かの神輿作りの選りすぐりの職人が(あるいは一人の職人?)。 どちらも対象にその思いや意匠を深く込めているだろう。でも、それならばアントニオ・ロペス展であっても大神社展であってもほかにも作品・展示物は数々ある。どの物も作り手の思いが入らないものはない。
ではなんで特にまわりの空間を静かにさせてしまう、緊張させてしまう、人の口を噤ませてしまうほどの気配を持つものがあるんだろう?

あるものが放つ何かは、他のあるものは放たない。
ものの大きさとも質量とも関係ない。
(あ、都庁みたいな大きなビルはそれなりに大きさ・質量で人に圧(?)を与えるけれど。
でも建物も気配はそれぞれ。)

しかしそれは人でもそうで、だいたい(すごいザックリな言い方だけど)みんな同じような構成で体はできているけれど(骨格や筋肉や。)、ある人がそこに立った時(また歩いた時etc.)、放つものは個々によって違う。
モノと違うのはそこにその時の体調や考え/感覚のテンション等々も“放つもの”に含まれている事だろうか。。(いやそれ以前に人と物は根本的に違うが、それはあった上での話で。。)


(関係ないけど最近、人も構造物だな、ある意味建物と一緒で、言わば自分で移動できる建造物だなとも思います。 街をつくる景観のひとつでもあるし(自分の足で動く景観)。)


・・・と自分の疑問は今このあたりでとまっておりますが。

また日々の中で浮かぶことあれば、地味に考えていくのであります。



voici



参考

私がその前で深く黙ってしまった神輿(国立博物館「大神社展」より)
d0107419_0454258.jpg
国宝「沃懸地螺鈿金銅装神輿」平安時代・12世紀
和歌山・鞆淵八幡神社

(この写真は、大神社展の感想を書いていた人のブログをお見かけして
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=3203
そこから拝借しました。)








・・・またふと考えると、
すべてのものは(ひとであれものであれ)それぞれの気配を放っているだろうから
そこからあるものに自分が反応するというのはそれとの相性もあるのかな、と。


また書こう。。
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by voicivoila | 2013-05-14 01:00 | カラダ・ブタイ・デザインログ | Comments(0)
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